How do you
let him cry?




 一つ目の煙草を手に入れたロイは、入口のゼリーを踏まないようよけながら部屋から出る。見取り図でルートを確かめ廊下を突き進み扉を開けると、二階へと続く階段の前に出た。
「これを上ればいいんだな」
 ロイはそう呟いて階段に足をかける。その途端ギシッと階段の軋む音が薄暗い屋敷に響いた。
 ギシッギシッギシッ。
 一段上がる度足下で階段が軋む。その音を聞くうち、ふと十三階段の話がロイの頭に浮かんできた。
(確か普段は十三ない階段が十三になるとかいう話だったな……)
 十三段上がった先にあったのは何だったか。そんなことを考えていると自然階段の数を数えてしまう。
(五段……六段……、って数えるな!)
 数えて十三段だったらどうするんだ。そう思えば思うほど一段ごとに数えてしまって、ロイはキッと階段の上を見上げた。
「数なんて数えてないぞっ、私はッ!」
 ロイはそう言うなり一段抜かしで階段を駆け上がる。一気に二階まで上ったロイはフンッと鼻を鳴らした。
「ほらみろ、やはり十三段なんてあるわけないんだ」
 そう言いながらも一段抜かして上がったからと頭の隅で計算しようとするのを首を振って振り払うと、ロイは急いで階段の側を離れる。見取り図を開いたロイは、次の煙草の場所が丁度一階で言えばホールを挟んだ反対の端に当たるのを確認して思い切り眉を顰めた。
「くそう、ハボックの奴」
 わざと長く歩かせようとの魂胆が見え見えで、ロイは口汚くハボックを罵る。とにかく一刻も早く終わらせようとロイは廊下を歩きだした。一階と同じくやたらと靴音が響く廊下を歩いていたロイは壁のあちこちに鏡が打ちつけてあることに気づく。鏡は普通のものもあればヒビの入ったものもあり、そのどれもが屋敷の暗がりを奇妙に映し出していた。ロイが通り過ぎれば鏡が闇の中にロイの姿を浮かび上がらせる。ロイの白い顔が幾つもの鏡に浮かび、スッと通り過ぎては消えていった。
(映ってるのは私だろうが!)
 何故だかその姿にビクビクしてしまう自分をロイは内心罵る。だが、黒い髪に縁取られた白く秀麗な顔が思いがけない角度で不意に鏡に浮かび上がるのは、いくら自分の顔とはいえ心臓によくないものがあった。
(アレは私だ、全部私だ!)
 ロイは自分に言い聞かせながら廊下を歩いていく。その時、ふと鏡の中に自分以外の姿を見た気がして、ロイはギクリとして足を止めた。
(……金髪?)
 今確かに鏡の中に金色の髪が映っていた気がする。ロイが足を止めれば壁に打ちつけられたたくさんの鏡の中のロイも足を止めて辺りの様子を伺った。
 その時。
 スッと一枚の鏡の中を金色の光がよぎる。ハッとしてロイがその鏡を見れば鏡の奥からゆっくりと金色の光が近づいてきていた。
「ヒ……ッッッ!!!」
 上がりかけた悲鳴を手のひらで覆って押さえ込んだロイは廊下を猛スピードで駆け抜ける。一気に目指す部屋まで来ると扉を開けて中に飛び込んだ。
(なん……なん……ッ)
 ロイは両手で口を覆ったままその場にしゃがみ込む。あの鏡の中、近づいてきたのは金色の髪をした人の姿だったと改めて気づけば、ロイの背をゾゾゾと悪寒が走り抜けた。
「気のせいだ、絶対気のせいだ!光の加減でそう見えただけだッ!」
 ロイは自分に言い聞かせるように繰り返すと、部屋の中を突っ切り二つ目の煙草を手に入れた。


「チェッ、意外と頑張るなぁ」
 ハボックはコムから聞こえるロイの声を聞きながらそう呟く。
「惜しかったな」
 あれは悲鳴を上げたと言えるのではないかと思わないでもなかったが、どうせなら思い切り叫ばせてやりたい。
「もうちょっと、もうちょっと」
 ハボックは楽しげにそう言ってゆっくりと歩きだした。


「煙草は残り一つだな」
 ロイはそう言いながら見取り図を見る。どうやら最後の煙草は三階の丁度中央辺りの部屋にあるようだった。
 ロイはそうっと部屋の扉をすかし廊下の様子を伺う。特に怪しいものは見られないと確認するとそっと部屋から出た。一瞬迷ってロイは、息を一つ吸い込むと階段のところまで廊下を一気に駆けていく。扉を開いて階段ホールに出たロイは、三階への階段に足をかけた。
「な、なにかないか……」
 このまま階段を上がればまた段数を数えてしまいそうな気がする。一瞬考えて、ロイはパッと頭に最初に浮かんだ事を口にした。
「燃焼の条件。燃焼が成立するには可燃物、酸素、点火源の三つ全てが存在する事が必要である。点火源は火花や種火の場合は勿論、高温に加熱する事、高温雰囲気との接触も含まれる。可燃性混合気にある値以上の火花エネルギーを与えた場合、ある温度以上に加熱した場合に持続的に燃焼を行う事が出来るッ」
 ロイは学生の頃に学んだ燃焼理論を大声で叫びながら一気に階段を駆け上がる。勝手に数を数えようとする脳味噌を燃焼理論で押さえ込んでなんとか三階にたどり着いて、ロイはハアアと息を吐き出した。
「よし、あともう一つだっ」
 ロイは額の汗を手の甲で拭ってそっと歩きだした。


「おっ、おもしれぇ……ッ!」
 コムから聞こえてきた燃焼理論にハボックはこみ上げてくる笑いを必死に押さえ込む。大きな手のひらの中でクックッと笑っていたハボックは目尻に滲んだ涙を指先で拭った。
「ホント可愛いんだから、大佐ってば」
 あの意地っ張りで負けず嫌いなところが可愛くて仕方ない。
「でも、勝たないとオレも面白くないからな」
 頑張りを認めて勝たせてやりたいと思わないわけではないが、やはりここは自分の楽しみを優先させたい。
「悪いけど勝たせて貰いますよ、大佐」
 ハボックはそう言ってにんまりと笑った。


 扉を開け三階の廊下を歩きだそうとして、ロイは壁になにやらどす黒い痕がついていることに気づく。薄暗い中、足を止めてじっと見つめていたロイは、不意にそれが血痕だと気づいた。
「なんでこんなところに……」
 幾ら元ホスピスとはいえ壁に血痕など残るものだろうか。ライトをつけて確かめようかと思ったが、ぐずぐずするよりさっさと済ませてしまおうとロイは廊下を歩きだした。
「……」
 壁の血痕は幾つも幾つもついている。中には明らかに血の付いた手を壁についたと思われるような痕もあって、ロイは横目でチラチラと壁を見ながら進んでいった。
(血痕なんて初めて見る訳じゃないだろうが)
 戦場でもっと悲惨なものも見てきている。だが、戦場で見るそれと薄暗い屋敷の中、靴音の響く廊下で見るそれとは全く違う不気味さがあった。
(なにをビビっているんだ、ただの血痕だろうがっ)
 血痕に「ただの」という表現を使うのが適切か、疑問が残るところではあるが、今はそうでも思わなければ沸き上がるおぞましさを押さえる術がない。頭の中で「ただの血痕、ただの血痕」と念じていたロイの首筋を不意にヒヤリとした空気が撫でて、ロイは足を止めた。
「……風?」
 そう思って窓を見るが開いている窓はない。ゆっくりと視線を巡らせたロイは壁に文字が書いてある事に気づいた。
「“こんなところで死にたくない”……“ここから出してくれ”……?」
 思わず声に出して読めば薄暗い廊下に声が響く。妙に嗄れて聞こえる自分の声にゾクリと身を震わせたロイは、いきなり廊下を走り出した。一気に目指す部屋まで来ると扉を開けて中に入り目的の煙草に突進する。パッケージをひっ掴み部屋から飛び出たロイは、院長室の場所を確認しようと見取り図を開きながら廊下を足早に歩きだした。
「どこだ、院長室……確か一階だったか」
 薄暗い中、歩きながらではすぐに場所を確認出来ない。チッと舌打ちしてライトを取り出したロイは、ふと足音以外の音が聞こえることに気づいた。
 暗がりの中、カツンカツンとロイの足音が響く。その音に隠れるようにして、ズズッ、ズズッと何かを引きずるような音が確かにしていた。
「……」
 足を止めればその音も止まる。だが、ロイが歩き出せばその音も再び聞こえるのだ。その音がなんなのか、振り向くか振り向かないか、迷ったロイが目をやった壁に、赤黒い文字が浮かんでいた。

“私を捨てるのか”

“そう言うのなら”

“帰さない”

 その文字を見た瞬間、ロイはダッシュで走り出す。ヒヤリとした空気がロイの首筋を撫でて、ロイの背筋を悪寒が走り抜けた。やけに遠く感じた廊下を走り抜け、漸くたどり着いた階段ホールに続く扉に手を伸ばす。バンッと扉を開けたその瞬間、開けた扉の向こうから何かがヌッと顔を出した。
「キャアアアアッッ!!」
 ロイは甲高い悲鳴を上げて目を瞑り、手にしたライトを振り上げる。思い切り振り下ろしたそれをガッチリと掴まれて、ロイは悲鳴を上げながらもう一方の手を闇雲に振り回した。
「大佐、大佐っ、オレですって!」
「消えろッ!!このッ!!助けてッッ、ハボ!!」
「ああもう、大佐ッ!!」
 ハボックはロイの両腕をガッチリと掴んで大声を上げる。そうすれば暴れていたロイがハッとして動きを止め、ハボックを見上げた。
「……ハボック?」
「そう、オレっス」
 見開く黒曜石にハボックは答える。それからニヤリと笑って続けた。
「大佐、すっげぇ悲鳴。コムからと生とで鼓膜破れるかと思ったっスよ」
 言われてロイは初めて自分が悲鳴を上げていた事に気づく。
「ま、そういうことで、オレの勝ちっスね」
 ポカンとして見上げるロイの耳に、ハボックの勝利宣言が告げられたのだった。