真夏の
熱帯魚



暑い、と彼が言ったから。







記録的な猛暑だった。
例年気温が上がるにつれて犯罪率も上がるのだが、それすら下がり始める程の暑さが暫く続いている。テロリストですら活動する気力が無くなるのだろう。平和と言えば聞こえがいいが、暑さで作業効率の落ちた司令部内は平和と言うには程遠かった。
軍人たるもの、夏バテとはなんたる事か、そう言ってしまうのは簡単だが、そう言う司令官本人が夏バテしそうなのだ。バテないように注意して、と本人ではなくジャン・ハボック少尉に告げたのは、彼の副官であるリザ・ホークアイ中尉だ。二人のプライベートな関係を知っての発言だろう。けれどもこの暑さでは、食欲が無いのも眠れないのも致し方ないとハボックは思う。ロイは、暑いのも寒いのも人一倍耐性が無いのだ。
ロイ程ではなくとも司令部全体に暑さに対する疲労が溜まっているのは目に見えていて、ハボック自身この暑さには参っていた。どうしたものかと対症療法で誤魔化しているうちに、二人の休みが重なったのはそれから3日後の事だった。


食欲が無いと言うロイのために、その晩ハボックが作ったのは冷製トマトのカッペリーニにヴィシソワーズと言う口当たり重視のレシピだった。冷たい物なら食べられる、そうは言うが、腹が冷えるだけな気がする。だが取り敢えず食べさせて寝かせる事が当初の目的で、多少の事はこの際目を瞑った方がいいのだろう。
夕食の洗い物をしながら、窓を全開にしても風一つない部屋の空気がねっとりとまとわり付く様で、ハボックは溜息をついた。夜になっても気温は高く、湿度の高さも相まってまるでぬるま湯の中にいるみたいだ。この 暑さが眠れない原因だと分かってはいても、いったいどうすればいいのか見当も付かない。ロイお得意の錬金術で一気に冷やせないものだろうかとふと思うが、やれる物ならとっくにやっているだろう。
カタ、と音を立てて食器を置くと、ハボックは手を拭いて振り返った。ソファではややぼんやりした状態でロイが寝そべっていて、その何処か放心した表情にぞく、と寒気が走る。
そう言えば、と思い出すのは自分と彼との関係だ。仕事が忙しかったり他の諸々の事情で、この所そう言う意味ではロイに触れていない。急速に募る情動に苦く笑いながらも、彼もまた同じ条件なのだと思い立ってロイの元へ近寄った。

「大佐」
「うん…?」
ソファの足元に腰を下ろしてロイの髪を梳く。少し汗ばんだ地肌から髪が濡れて絡み付いて、まるで情事の後のようだ。
「ねぇ、大佐」
強請るように指の腹で愛撫を繰り返す。
顔を覗き込めば、暑い、と煩わしそうにハボックの指を跳ね退け視線を反らす。だがそれくらいで引き下がるようではロイと付き合うなど出来る訳がない。
「大佐」
「なんだ」
不機嫌さを滲ませる顎を捉えてハボックは唇を塞いだ。舌先で抉じ開けて侵入すれば、先程冷たい物を食べたはずなのにその口内は酷く熱い。まるで大気中の熱が、彼の内に籠ったような。
ねっとりと舌で撫で回せば、脳内が溶けるように頭の芯が痺れる。けれど応えてくる舌はお座なりで、唇を離せば押し退けるように、熱い、とロイは言う。
「暑いの?それとも熱い?」
「どっちもだ」
「…もしかして、嫌ですか?」
「嫌ではないが、暑すぎて無理だ」
まただ、とハボックは思う。半月程前もそうやって拒まれ、結局折れたのは自分の方だった。
多分本当は、ロイの方だって、そう言う欲求があるのだと思う。
けれどもセックスもしたくない位の暑さとはいったい何だろう。
「つまり嫌なんですね?」
「そうじゃない。暑いんだよ」
ハボックだってロイが嫌がる事はしたくない。けれどそんな理由で、恋人同士の甘い時間を奪われるのは納得がいかない。
「そんな事言って、いいかげん俺、乾上がりそうですよ?」
あんたが足りなくて、言えばロイは気怠そうに、だって暑いんだ、と口を尖らせる。
このままでは平行線で埒があかないのは明らかで、それでも、ロイの方が折れる事は無いとハボックには分かっていた。そんな恋人のつれなさにも拘わらず身体はロイを欲して、切なさにハボックは溜息をついた。
煙草でも吸って誤魔化してしまおう、そう思いながら体を起こしてポケットに手を入れる。へしゃげたソフトパックのそれを取りだそうとして指先に触れた堅い感触に、ああ、と思い出した。
「だったら、風呂に入りません?」
「風呂?」
「それくらいの譲歩はして下さいよ」
言えばロイはうろんな目付きでハボックを見上げて、いったい何をするつもりだお前、と言うが目元にいつもの覇気は無い。
「別に。あんたの嫌がる事はしませんよ?」
シャワーより疲れが取れるって言うし、にっこりと下心の無い笑みを浮かべてハボックは、風呂の支度をしてきます、とリビングを後にした。要は、ロイが嫌がらなければいいのだ。

バスタブに湯を溜めながら、ポケットから取り出した四角い物体を手の中で転がした。
終業間際ホークアイに呼び止められて、彼女がくれた物。
包装を剥くと半分ほど湯の溜まったバスタブに放り込んでやる。
薄いグリーンのバスキューブ。清涼感のあるミントの香りがするそれは、風呂上がりでも冷んやりとする効果があるらしい。
彼女にしてみたら深い意味は無かったのだと思う。ロイの体調を気にしての事なのだろうが、少し違う意味合いで使う事をこの際目を瞑ってもらいたい。
湯の中でゆるゆると溶けていく小さな物体を見ながら、ハボックは口元を緩めた。

□ □ □

風呂の支度をしてきます、とリビングを出て行ったハボックを見送って、ロイはソファに沈み込んだ。
大気中の熱が体内に溶け込んだのでは、そう思える程に酷く熱い。体の芯が燃えるみたいな、つまりは――――欲情した時のような。そう思ってから頭を振る。確かにそう言う類の欲が無い訳ではない。けれどこの暑さ では触れられる事すら煩わしく、まして内側から融かされるみたいに発熱するような行為を敢えてしたいとは思わない。
求められれば欲しいと欲求を覚えるように、躯は変わってしまった。変えられてしまった。
それでも、気分が乗らないと言うのが実の所かもしれない。
「大佐、お湯入りましたよ?」
「……ん」
この所の暑さで寝不足で、僅かな時間の間に意識は眠りへと引き寄せられていた。このままここで眠らせてくれ、そう思うロイの手を取りゆっくりと引き上げて、ハボックは抱きしめてくる。
「……熱い」
「風呂、入るとサッパリしますよ?」
「…眠い」
「一緒に入る約束でしょ?」
このまま抱いて行ってもいいんですけど、耳元で囁かれたやや物騒とも言える台詞に、冗談じゃないと思う。姫抱きで風呂に連れて行かれるなど、男を付けあがらせるだけだ。
歩く、と腕の中から脱け出して不本意ながらもバスへ向かえば、ハボックは犬のようにぴったりと後を付いて来る。今更逃げたりなどしないのに、ロイがパウダールームに入るのを見届けてから、ハボックはお先にどうぞとドアを閉めた。

脱衣場の壁に背を付けてシャツの釦を外しながら、流されていると思う。
一緒に入ると約束した訳じゃない。けれど一方的なそれを叶えてやる程度には、自分はハボックに甘い。過去の記憶を辿らなくとも、一緒に風呂だなんて結果は見えているのに、気が乗らないと思いつつも胸の内側に蟠るような甘い疼きは何なのか。
認めたくはないけれど、ロイの方だってハボックが足りないのだ。
一度は拒んだその行為を何処で期待している、そんな自分の心情に気付かされて一気に汗が吹き出て来る。狭くて閉ざされた空間では空気が濃密で、脱いだ服を脱衣籠に放り込むと逃げるようにしてロイはバスルームのドアを開けた。
シャワーで汗を流して、バスタブに沈み込む。
淡いグリーンの湯はぬるめで、仄かにミントの香りがするそれはハボックにしては気が利いている。
目を閉じてバスタブの縁に頭を乗せれば、疲れた体は重くなるのに波間を漂うような浮遊感がある。
確かに心地いい、そう思いながら、カチリと音を立てて開いたドアに初めて、ハボックの気配に気付いた。
「寝ないで下さいよ?」
「……寝てない」
目を閉じたまま無防備さを晒すようにバスタブに体を預けて、シャワーの水音がやけに生々しい。
ちゃぷ、と湯が跳ねて、ハボックがロイと向かい合うようにバスタブに入ってくる。
伸ばしていた脚を縮めれば体を挟むように両側にその脚を感じて、ロイはぼんやりと目を開けた。
「気持ちいいでしょ」
「…うん」
ゆらゆらと揺れるような、揺らぐような。人肌よりも低い湯温は暑さで火照った体を冷やしてくれる。
「まるで魚になったみたいだ」
「魚っスか?」
「ああ。見たことないか?熱帯魚」
カラフルな体にヒラヒラとした尾びれ、水の中を優雅に泳ぐ姿は見た目にも涼しげだ。
昼中の熱が冷めないねっとりとした空気の中では、ぬるま湯の中を泳ぐような感覚がある。
まるで南部のジャングルにでもいるかのようなトロピカルな夜に、こんな風に二人、水に浸って熱帯を游ぐ魚になるのも悪くない。
「ありますよ?あれって観賞用でしょ?」
「そうだな」
ゆっくりと頭を起こしてロイはハボックの顔を眺めた。目の覚めるような蒼と金だ。もし彼が熱帯魚だったらさぞかし映える事だろう。そんな事を思うと可笑しくなる。