ゲッカ
ビジン


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 再びそれが私の元へ来ることになった時、何か記憶に引っ掛かるものを感じたのだ。

 なのに何故、私はその時それを追求しなかったのか。
 その手間を惜しんだがばかりに……!!

「あ…あぁ…ッ…」
「ほら、分かるでしょう? あんたのも負けないくらい、キツくなって来ましたよ」
「…ッ、…クソッ…ッ、あとで…覚えてろ、よ…!」









 昼間の強い日差しが幾許か和らぎ始めた夕刻時、ロイは軍服に常時携帯している銀時計を取り出した。

 本日のロイの勤務シフトは日勤である。朝から勤勉に働いた為、本日が期限の書類の決済はすべて終了し、あとは退勤時刻がやって来るのを待つばかりである。

 今日は久しぶりにハボックと退勤時刻が重なった。そういう時はロイは送迎役のハボックに自宅まで送らせがてら彼を家へ上げるのだが、そのまま朝まで共に過ごすのが最近の常だ。
 今日もまたハボックを連れて帰宅した後は、ハボックに食事を作らせ、ついでに台所を片付けさせ、そのついでに風呂の世話と寝床の世話をさせ、そのついでのついでに家中に箒をかけて水拭きをさせよう、窓拭きも含む、と計画を立てていた。
 ロイは向こう一週間は休みナシの日勤が続くのだが、ハボックは今日の退勤後、明日は丸一日非番で明後日は遅番と、実に羨ましいシフトになっているので、恐らくその休みの間中ロイの家に入り浸るであろうハボックが退屈せぬようにとのロイの配慮だと思ってくれれば良い。

 誤解の無いように言うが、ハボックはロイから言われるまでもなくそれらを嬉々としてこなし、むしろそれをロイが遠慮したり断ったりすると、見えない耳とシッポを垂らしてピスピス鼻を鳴らすので、ロイとしてはロイを構い倒したいというハボックの願いを叶えてやっている、というところなのだ。
 恐らく今日も、特に約束を取り付けている訳ではなかったが、護衛官としてロイを自宅に送り届けた後は、ロイのために食事を作り、風呂を用意し、そしてベッドを共にすることを望んでいるに違いない。

 ちょっと間延びした口調で『たいさぁ〜』と甘えてくる声を思い出して頬を緩ませながら、銀時計の蓋を開けて文字盤に目をやると、あと半時間ほどで退勤時刻になるところだった。
 ロイは今日仕上げなければならない仕事はすでにやり終えていたので、後は射撃場へ訓練に行っているハボックが戻って来るのを待つだけだ。
 早めに切り上げてさっさと戻って来れば良いものを、案外根が真面目なハボックは決められた量をきっちりこなしてからでないと戻って来ないだろう。以前、彼の士官学校での素行を引き合いに出してそのことを茶化したことがあったが、真顔で『カラダ張ってあんた守ってんの俺ッスから』と言われた時は不覚にも胸が高鳴った。

 そんなハボック待ちの間、ロイは執務室の書類の片付いた広いデスクに着いたまま、届いたばかりの夕刊を広げた。

 すると、そこへノックの音がして、フュリーの声が入室を求めて来た。入室を許可すると、バインダーを抱えて中へ入って来たフュリーが、すぐにロイの決済が必要な書類があると言うので、ロイは頷いた。
 フュリーから受け取った書類の内容にロイが素早く目を通していると、応接用のソファセットのローテーブルの上に置かれている植木鉢にフュリーが気付いて、ロイに訊ねた。

「大佐、あの鉢植えは何ですか?」

 フュリーが指差した植木鉢は大振りで、それに見合うように背の高い大きめの植物が植えられており、幅広で全体が波打った葉が長く伸び、その輪郭の等間隔でくぼんだ部分からは白っぽい色の細く長い茎がU字形に曲がって垂れ下がり、その頭を擡げたような先端に蕾と思しき膨らんだ部分があった。

「ああ、あれは私が懇意にしていただいているセントラルの某将軍閣下の夫人からの預かり物なんだ」
「預かり物、ですか?」
 フュリーの返事に頷きながら、ロイは目を通し終えた書類にサインをしようとペンを手に取った。
 その時、また新しいノックの音がして、ファルマンが執務室に入って来た。
「お言い付けのファイルをお持ちしました」
「ご苦労。ここに置いておいてくれ」
 そう言いながら、ロイは今座っているデスクの片隅を指差した。

「あれは、月下美人ですか?」

 ロイの指示通りの場所にファイルを置きながら、先ほどのフュリーと同じくファルマンも鉢植えに気が付いてロイに訊ねた。
「よく知っているな、ファルマン」
 サインをし終わり、バインダーごと書類をフュリーに返しながら、ロイは嬉しそうに笑った。

「“ゲッカビジン”、学名を“ Epiphyllum oxypetalum ”、別名“夜の女王”。南国の高温多湿な地域を原産とするサボテン科クジャクサボテン属の常緑多肉植物であり、アメストリスで多く流通しているクジャクサボテン属には交配されたものが多いが、“ゲッカビジン”は原種である。花は夏の時期に開花するが、夜に咲き始めて一晩でしぼんでしまうことで有名。花弁は白く、かお…」

 話の途中であったが、ロイは笑顔のままファルマンに向けて片手を上げ、放っておけばその知識が枯渇するまで説明を続けそうな彼を黙らせた。
「去年の今時分、セントラルに赴いた際とある将軍のご自宅に招かれてお邪魔したのだが、そちらの夫人が月下美人の栽培においてはかなり有名でいらっしゃってな、普通1シーズンに1回咲くところを複数回咲かせるなど、とても凄い腕をお持ちの方なのだ」
「そうなんですか」
 ファルマンとフュリーが揃って感嘆の声を上げた。

「えっ、じゃあ、その夫人からの預かり物ということは、あの月下美人はセントラルから来たんですか?」
 フュリーがびっくり顔でテーブルの上の鉢植えを指差した。
「その通りだ。セントラルからの長旅を経て、今しがたここへ到着したところだ」
「しかし、何故また大佐にお預けになったんです?」

「もちろん、鑑賞のためだ。もうあと数日もすれば花を咲かせるそうだ」

 そうロイが返事をすると、ファルマンとフュリーが互いに顔を見合わせた。
「大佐が花を鑑賞なさるご趣味をお持ちとは存じませんでした」
 そう言うファルマンに、ロイは苦笑した。
「女性達にプレゼントするだけではなく、私自身が単に花を愛でるために傍に置いてもおかしくはないだろう? これは、一晩しか咲かない貴重な花を、私にも見せてくださろうという夫人のご好意を有難く受け取ったのだよ」
「そうだったんですか。実は、月下美人の花は写真でしか見たことがなくて、実際に咲いているところは見たことがないんですよ」
 ファルマンが植木鉢の方を見ながら言うと、フュリーが『僕は写真も見たことがありません』と声を上げた。
「二人は本物を見たことがないのか。私はあるぞ」
「どちらでご覧になったんです?」
「去年も夫人から月下美人を貸し出していただいたのでな、それで見たのだ」
「なるほど。それで、どんな花が咲くんですか?」
「それはだな」
 興味津々な様子のフュリーに、ハボックとは系統が違うがこいつも同じ属性だななどと考えながら、フュリーのキラキラした瞳に笑みを誘われていると。

『うん…? おかしいぞ…』

 ロイは眉間に皺を寄せた。花を見た筈なのに、どうした訳か記憶が蘇って来ないのだ。

「月下美人は花を咲かせる時、とても強い香りを放つそうですが、いかがでしたか?」
 ファルマンにそう聞かれた途端、ロイはいきなりガタン!と音を立てて椅子から立ち上がった。そして、そのままその場で固まってしまった。

「大佐? どうかなさいましたか?」
 怪訝そうなファルマンの声に、ロイはハッと我に返った。

「あ、ああ、…いや、何でもない。香り、香りだったな? うん、そうだな、確かに強い香りだったぞ」

 ロイは歯切れ悪く返事をしながら、再び椅子に座り直した。
「そう言えば、去年は僕、月下美人の鉢を見かけませんでしたけど?」
 さっきロイが、去年も貸してもらったと言ったので、それに対しての疑問らしかった。
「ああ、それはな、去年はセントラルから直接イーストシティの私の自宅まで、私に同行していたハボックに持って帰らせたからだ。今年は夫人のご好意に甘えて司令部気付で送っていただいたのだ」
「なるほど、そうでしたか」

「ハボックはまだ射撃場だな?」

 唐突にロイからそう聞かれ、二人がきょとんとした。
「ハボック少尉ですか? はい、まだお戻りではありませんが、ご用がおありでしたら少尉をお呼びしましょうか?」
 ファルマンが気を利かせて言ってくれたが、ロイは手を横に振ってそれを断った。
「いや、それには及ばん。…いや、用という用ではないのだ、呼ばなくて良い」
「はい」
 明らかに途中から様子が変わってしまったロイを不可解に思っているだろうファルマンとフュリーだったが、ロイが良いというので、それで収めてくれたようだった。
「そうだ、中尉を呼んでくれ、大至急だ」
 ロイがそう言うと、二人はピッと敬礼をして、命令をホークアイに伝えに向かうべく、すぐに執務室を後にした。