青嵐の
ゆくえ




 今日も、朝からうだるような暑さが続いている。
 夏の初めにも関わらず、猛暑を予感させる日がここ、アメストリス東部でも続いていた。



 汗ばむ身体をもてあまし気味に、ハボックは司令部の外に出た。
「あっつー……」
 顎に滴る汗を乱暴に手で拭って、あたりを見回す――――目的の気配は、見当たらない。
 耳をすませば、ここから遠くの連兵場から訓練に励む隊の声、今出てきた建物からは多くの人のざわめきが聞こえるが、こんな日当たりのよすぎる辺鄙な場所には自分しかいない。
 これでもかと肌を痛めつけてくる太陽を見上げ、ため息をついた。
「よくもまあ、こんな日に抜け出す気になるよ……」
 
 ハボック自身、実のところ暑さに対してさほど強くはない。
 もちろん軍人であるからして、一般人よりも暑さや寒さに耐性はあるが、その全身をバランスよく覆っている鍛えられた筋肉の熱量まではどうしようもないもので。
 今もずっと動き回っているせいで、着ている黒のシャツが汗で身体に張り付き不快感を感じていたが、どこぞの筋肉少佐ではあるまいし、訓練後でもないのにこれ以上脱ぐのはできれば御免こうむりたいところだった。

 ハボックですらそんな状況になっている今年の初夏であったが、彼が今探している上官はそれ以上に暑さに弱かった……いや、正確には自分の欲求に素直だった。
 ひとたび事件となれば、シャツをきっちりと着込み涼しげな顔で指示を出している様子からして、暑さへの耐性が少しもないわけではないはずだったが、暑さを感じることに変わりはない。
 そして彼は、そういったことに対してまったくといっていいほど我慢強くなかった。
 今日だって、この暑さと執務室でひとり書類と向き合っているのが嫌になったに決まっているのだ。

 ――――だからといって、「暑いので、ちょっと涼みに行ってきます」なんて書置きを残して逃亡する上司がどこにいるというのか。

 しかもその上司は実質の東方司令部司令官で、焔の錬金術師で世間では英雄として知られていて――――
(…………やめよう)
 涼みに行くという言葉からどうせ建物の中だろうと当たりをつけて探したものの、ものの見事に空振りの連続。いつもなら30分もすれば見つかるはずの上司は、このクソ暑い時に限ってまったく居場所がつかめなかった。
 結局こんな凶悪な日光の下にまで来るはめになった己にまで思いを馳せてしまったことに気づいて、ハボックはうんざりと頭を振る。
 ぱらり、と銜えていた煙草の先から灰が舞い、慌てて携帯している灰皿にねじ込んだ。
「――――行くか」
 日差しは強くとも、頬に感じる風は湿気を含まないからりとしたものだから、木陰に入れば十分涼しさを感じることができそうだ。
 ざっと周囲に目を走らせて、ハボックは検討をつけた方向へと足を向けた。



 そして、探索すること15分。
(み…見つからねえ……)
 比較的木陰の多い場所でも、目当ての人物はいなかった。ここまで見つからないのも久しぶりだ。
 うなだれるハボックを嘲笑うかのように日光が照りつける。その苛烈さにいっそのこと大部屋へ戻ってしまおうかという考えがよぎったが、同時に思い浮かんだ人物にすぐさま却下した。司令部の誰だって、あの冷たい瞳と銃口にはかなわない。想像しただけで走った寒気は気のせいではないだろう。
(ほんと、どこに行ったんだか)
 彼が本気で行方を眩ましたい時は、本当に一切の痕跡すら残さない。だが、今日はところどころで目撃情報を得ている――――そもそも最初から大層ふざけた置手紙があった――――ので、本気で消えたいわけではないはずだ。
(……見つけたら絶対中尉に懲らしめてもらおう)
 自分で、というわけではないところが些か悲しいところであるが、一番効果的な手段である。
 ハボックが強く決意したところで、緑の多い中庭に出た。
 ざっと周囲に視線を走らせてから、目に付いた木陰で新しい煙草に火をつける。
 想像通り日光が遮られた影の中は風が心地よく、さわさわと緑に色づいた葉が揺れる。悲しいかな、己の上官のサボタージュにはもってこいの気候だ。
 風に煽られ、空へ上っていく白煙をぼんやりと見ながら思い起こす。

 あの時も、今と同じように殺人的な暑さだった。







「おい、そこの少尉」
「はっ!  ……?」
 呼ばれたらどんなときでも直立不動の姿勢で返事をするのは最早軍にいるものの条件反射だ。
 それは暑さの中ぼんやりとしていたハボックにも当てはまる。すぐさま背筋を伸ばして返事をするも、声の主は見えず、気配も感じない。
 ゆっくりと視線だけで周囲を伺うハボックの頭の上、強い風が吹き抜けたせいか、ガサガサと木が揺れた。
 非常に低く、不機嫌さを隠そうともしない声は、困惑するハボックにまったく頓着しないまま続ける。
「煙い。ここは禁煙だ」
「……は、申し訳ありません、サー」
 命令することに慣れきった口調。間違いなく上官なのだが、声はまだ若く、涼やかだ。ハボックの一番苦手とするタイプかもしれないと内心歯噛みし、銜えていたフィルターを噛む。
 これは、着任早々目つけられるかも――――。
 もともと上官受けがよろしくないことを自他共に認めるハボックだ。特に、エリートと呼ばれる若い上官たちは、体力だけで士官学校をクリアしたように見える――――あながち間違っていなくもないがそこはまあいい――――筋肉バカがお気に召さないようだった。
 今回の中途半端な時期の異動だって、前の部署では引き抜きだのなんだの言われていたが、ハボック自身はいつものように自分を煙たく思った上官に飛ばされたのだろうと思っている。
 いくらなんでも着任の挨拶でさえまださせてもらえない状況で、引き抜きだなんて喜べるほどおめでたくはない。
「知らなかったのか?」
「すみません、今日配属になったばかりで知りませんでした」
「ふうん?」

 声に、どこかおもしろがるような響きが混じったと思った瞬間だった。

 一際強い風が吹き抜け、


「……っ!?」


 目の前に人が降って来た。



 反射的に閉じた瞼を開けば、片手を細い枝に残してぶら下がっている白いシャツに黒髪の青年。
 さきほどの声の主――――にしては、さらに若く見えた。
 彼は少しばかり危うい動きながらも地面に降り立ち、頭についた葉もそのまま、直立不動の姿勢で呆然と立つハボックのすぐ傍まで来て、まじまじとこちらを見た後もう一度ふうん、と呟いた。目も真っ黒だ、とどうでもいいことに気づく。
「えと……あの?」
「聞いてる。もうすぐ護衛官が増えると中尉が言っていたが、今日だったか」
「はあ……」
 ……ということは、この人は中尉以上か。この言い方だと左官クラスかもしれない。
 つーか、なんでこんなとこから落ちてきてんの、この人。
「ああ、ありがとう」
 礼を言われてから、己が彼の頭に手を伸ばし、その黒髪を飾っていた葉を取り払っていたことに気づいて戸惑う。

 よく――――わからない。
 なんというか、距離感が。

 それがこの人物の突拍子もない行動のせいなのか、上官には見えない容姿と雰囲気のせいなのか、ていうかそもそも一体誰なんだこのどっか危なっかしそうな人は。
 会って早々危なっかしそうという第一印象をハボックに与えた当の本人は、一人疑問だらけでぐるぐるしているハボックをどこか満足そうに見やっている。その面白そうな様子が余計ハボックを混乱させる。
 ええとどうしたらいいんだ、とりあえず名乗って謝罪して――――って俺まだ煙草銜えたままだし!

「――――あの、」
 ひとまず煙草を消して謝罪しようとハボックが口を開いたタイミングで。
「――――しまった、見つかった」
「あ!見つけた!」
 目の前の彼が顔を顰めて呟いたのと、遠くから声がしたのはほぼ同時だった。
 振り返ると、眼鏡の小柄な軍人がこちらを目指して走ってくる。少々息が上がっているのは暑さのせいか、すでに散々探し回った後だったのか。
「ちょっ…と大佐ー……!中尉カンカンですよ!」
「た……!?」

 大佐!?これが!?

 目を剥くハボックの前には、少しばかり意地の悪い笑みを浮かべた彼。

「上官になるヤツの顔くらい、事前に知っておいて損はないと思うぞ?ジャン・ハボック少尉」
「――え」

 大佐と呼ばれた青年はふいにその白い腕を伸ばすと、ハボックの口元を掠めるようにして銜えたままだった煙草を奪い――――さらなる逃亡を図った。


 追っ手となる曹長がたどり着く頃には、彼が持ち去った煙草の香りと、立ち尽くすハボックだけが残されていた。







 それは昨日のことのようにも、随分昔のことのようにも思えた。
 だが、いまやハボックが煙草を吹かしながら思うのは、いつだって彼のことだ。
 ハボック含め、あれからいろんなものが随分と様変わりしたが、風はあの時と変わらず、さわさわと木々を揺らして心地いい空気を運んでくる。
 そして、ハボックの耳は風の仕業ではない木々が揺らされる音を頭上に捕らえた。

「『……おい、そこの少尉』」
「『はっ』」
「『煙い。ここは禁煙だ』」
「『は、申し訳ありません、サー』」
「『知らなかったのか?』」
 さきほどの記憶を辿り直すような会話に口元が緩む。
「――――No,sir.もうここに来て長いスから」
「だったら何故そこで煙草を吸う」
「こうしてたら暑さに負けて逃げたうちの上官が出てくるかもと思いまして」
 言うと、少しの沈黙。むっつりと黙り込んだ、不本意そうな表情まで目に浮かぶようだ。
「……私は燻される虫か」
「誰もそこまで言ってやしませんて」

 耐え切れずに喉を震わせると、あの時と同じ、涼やかな、だけど不機嫌そうな声が降ってくる。
 ――――いや、あの時よりも柔らかい。彼も自分も。
 そうなるだけの時間と、確かに積み重ねたものがここにある。

「……何を笑ってる」
「いいえ。――――つうか、あんたいつから此処にいるんです。なにあの書置き」
「こんな風の日はここが一番なんだ」
「中尉に撃ち殺されたいなら止めやしませんけど。いい加減学習してくださいよ、俺まで怒られるんスから」
「おまえが来るのが遅かったせいだろう?」
「俺のせいにするかそこで」

 そろそろ年なんだから落ちますよ、と告げると、おまえがいるから大丈夫だ、と冗談なんだか本気なんだか分からない返事が来て閉口する。
 言葉に詰まったハボックに相手は当然のように気づいて、姿は見えないままひそやかな笑い声だけが落ちてきた。
 トドメのようにかわいいな、という言葉まで降って来てさらに言葉を失う。

「〜〜〜いいからさっさと降りてきてください」
「ん。ちゃんと受け止めろよ」
「へっ?」



 夏空の下、強く吹き抜けた風とともに彼が降って来た。








 木の上でサボってて落ちてくる大佐って可愛い気がする。
 そんな妄想からうまれました。
 甘さの欠片も大佐の名前もありませんが、書いてる本人はとても楽しかったです。
 「青嵐」はあおあらし、で夏の季語。初夏のさわやかな風とのこと。これを機にいろいろと季語を調べてみましたが日本語は魅力的な言葉に溢れているなあと実感しました。
 お読みいただき、ありがとうございました!


柚 / In Dunkelheit [青嵐]