恋に
打つ水




 買い物から戻ってきたかと思えば、ハボックは荷物を片付けるなり庭に出ていった。
 すぐに水音が聞こえてきて、ソファでだらしなく本を読んでいたマスタングは開け放った窓の向こうにいるハボックを見やった。
 着古したTシャツにハーフパンツでサンダルをひっかけただけという、上官の家で過ごすにはあまりにもゆるい格好をした部下は、勝手口からひっぱってきたホースであたりに水をまいている。
 一日中照りつけていた太陽がようやく地平線に沈みかけ、汗に湿ったハボックの金髪をいつもより濃い色に見せていた。
 長時間同じ姿勢だったせいで凝り固まった首筋をまわしながら体を起こすと、窓から入ってきた風がゆっくりと汗ばんだ肌を乾かしていく。
 涼を得るための水まきなんて自分ではやらないが、やってもらうぶんには気持ちのいいものだ。うなだれていた庭木が生き返ったように緑に輝くのも情緒があっていい。
 マスタングとハボックは今日から一週間、休暇に入っている。
 年間のスケジュールには最初からそう記載されていたが、実際そのとおりになるとは思っていなかった日程だ。
 アメストリス建国以来、影から国を操りつづけていた人造人間たちや、その息のかかった軍上層部が一掃されて数年、大総統となったグラマンからイシュヴァールを含めた東部の施政を一任されたマスタングは、かつてサボリの常習犯としてホークアイを煩わせたのが嘘のようにややワーカーホリックぎみだった。
 真に国のためを思ってではない、ただ権力をもつ者の保身や我欲によるくだらない横槍を入れられることが少なくなり、純粋にマスタングがめざした未来のために時間を使えるようになって、やりがいを感じていることも大きい。
 時間があればあるだけ仕事に励んでしまうし、それでいてやることがなくなる仕事でもないのだから、夏の盛りに予定されていた休暇もずるずるとなにかしら仕事が入るのではないかと思っていたのだ。
 だがそこは有能な副官が一言、たまにはゆっくりしてくださいとスケジュールを死守し、綺麗に一週間の空白ができた。マスタングの副官の片割れであり、護衛でもあるハボックが同じタイミングで同じだけの日程を休むことになっているのは、確実に時間をもてあますだろうマスタングのお守としての役目があるのは明らかだった。
 そのハボックは昼前にふらりと顔をだし、当たり前のように昼食をつくり、適当に掃除をし、夕食のための買い物をしてきて、庭に水をまいている。
 命にかかわる大怪我のあとマスタングのそばから離れ、苦しいリハビリを経て軍務に復帰したハボックと長い休暇を過ごすのは、実に数年ぶりのことだ。
 大佐と少尉として東部にいたころ、仕事の帰りに飲みにいったり、休みがそろえば暇をもてあまして互いの家を行き来することは多く、日常的すぎて、ひとつひとつを憶えているわけではないが、特に夏の休暇はハボックを直属の部下にしてから、ほぼ毎年一緒にすごしていた。  当時から護衛役として休日がほとんどかぶっていたり、なにかと行動をともにすることに慣れていたこともあるが、なんといってもマスタングとハボックのあいだには、通り一遍な上下関係ではない一種の情があったのだ。
 そして、あのころのハボックはなにも負うものがなかった。
 暑さにうんざりしながら、それでも屈託なく、心底から夏の空気を満喫するハボックが、正直に言ってしまえばマスタングは好きだった。そばで見ていたかった。
 いまも、好きだった。
 夕暮れの風が濡れた庭木の葉を揺らし、昼間の熱気さめやらぬ部屋の温度を下げていく。
 水をとめてホースを片付けているハボックは、このまま夕食の支度をはじめるのだろう。
 マスタングは読み止しの本に再び視線を落とした。



 ハボックを、最初に好きだと思ったのは中佐だったころだ。
 会議のための移動中にとおりがった渡り廊下に面する訓練場の一角からわっと歓声があがり、マスタングの視線は自然に吸い寄せられた。
 そこにいたのは勢いよく水があふれるホースを手にしたハボックと、泥だらけの彼の部下たちだった。
 ハボックはどこでもくわえ煙草を押しとおす一見だらしない男だが、任務に関しては真面目で、部下の教育も信頼に値する成果をあげていた。
 舐めてかかったほうが舐められると言っていい荒っぽい叩き上げの兵卒たち相手に士官学校出の少尉はまるで物怖じせず、狼の群のように躾けてみせた一方で、訓練がおわればどこにいっても受け入れられる性格で懐かせる。
 軍隊特有のしごきのあと、笑いながら猛暑のなかでの訓練を耐えた部下たちに水をかけてやる顔がよかった。
 好意の種類はともかくとして、いいな、と思ったのだ。
 それからしばらくした休日、どうせ本読んでるか寝てるだろうと思って、と仕事帰りに冷えたビールとデリで買い求めた酒のあてを手土産にやってきたハボックにふと思いついて言った。
「あつくてかなわんから庭に水をまいてくれ」
 惣菜を皿にあけていたハボックは、さっさとビールを飲みはじめたマスタングの言葉に嫌な顔をしたあと、ため息をつきながら露をまとわりつかせたグラスに未練の一瞥をくれ、庭に出ていった。
 日は沈みかけていたが、外はまだ十分に明るく、ハボックはどこからか見つけてきたホースで庭に水をまきはじめた。グラスを持って窓辺にもたれ、見物をはじめたマスタングに伺いを立てる。
「ご満足いただけましたか、大佐殿」
「うむ。もうしばらく励みたまえ、ハボック少尉」
 悠然とうなずいてみせると、ハボックはマスタングの顔を見て、ひでえ上官だ、とぼやきながら苦笑した。反発する気をうしなった、けれども諦めでもないゆるい許容の顔だった。
 それはあのとき部下たちに向けていた、悪戯な少年のような顔ではかったが、マスタングはまた、いいな、という単純で強い思いに胸を満たされた。
 消えかけた残照にきらきら光る雫と緑。咽喉がふさがれたような息苦しさがゆるんで、わずかにできた隙間に思慕がするりと入りこむ。
 夏だからな、とマスタングはそれをゆるした。
 服装も気持ちもゆるむ季節だ。
 誰の迷惑にもなるわけでもない気の迷いならゆるされるだろう、と思うことにした。
 それからハボックがいなくなるまでの数年間、夏のあいだだけ、マスタングはいわゆる恋をしてきた。
 普段はさまざまなしがらみで蓋をしたそれを、ときどき宝箱からとりだした宝石のように、ただそばに置いて眺めることを自分にゆるすだけの恋だった。



「准将、いい加減おきてくださいよ」
 ソファにだらりとのびたまま、ほとんど頭に入らない文章を目で追うだけのマスタングに、ビールと皿をもってきたハボックは呆れた顔をしている。
「あんた休みだからってごろごろしすぎ。もう若くないんだから少しは体動かしたほうがいいっすよ」
「失礼な。まだまだ若い者には負けんぞ、私は」
「そういうとこがおっさんになったなって言ってるんですよ」
「おまえも人のこと言えるほど若くもないだろうが」
「俺は動いてますもん」
 くわえ煙草の口元がおかしさをこらえるようにゆがみ、炭酸のあわ立つグラスをかちりとあわせてきた。
「ま、なにはともあれお疲れさんです。せっかくの連休ですからのんびりしてください」
「ああ。おまえもな」
 マスタングは短く返し、グラスに口をつけた。
 ハボックはもともと自炊を苦にしないので、酒のあてもつくる。もちろん簡単で大雑把な男の手によるものだが、つくるのはマスタングの好みを知っている男だ。テーブルに並んだのは田舎出らしく都市部ではあまり見ない調理をされた夏野菜が中心のあてだった。
「うまいな」
「そりゃよかった。いつだったかあんたがうまいって言ってたのもありますよ」
 グラスを傾け、料理をつつき、合間に煙草をふかす男はそう言ってうれしげに笑う。
 見とれるほどゆったりと幸福そうに。
「……ああ、そういえばそうだったな」
 マスタングはその笑みにわずかに目を細めてうなずき、すすめられる皿に手をつけた。
 離れているあいだに別人のように面差しを変え、ハボックはマスタングのもとに戻ってきたとき、マスタングのあとを追う子犬のようだった青年は、こちらが戸惑うほど大人になっていた。
 照れ隠しで斜に構えた顔をしなくなり、マスタングのそばにいることに下手な言い訳もしない。
 自然、マスタングとハボックの間でかわされる言葉数は少し減った。軽口を叩きあうのは変わらないが、たぶん、沈黙がいたたまれないものではなくなったのだろう。
 マスタングはときどき、いくら自分で自分の感情を無視したところで、こいつはお見通しなのかもしれないと思うことがある。
 そばにいろと思っているとき、ハボックは当たり前のように近くにいる。言うべき言葉を見失っているとき、わかっているとうなずいてみせる。
 ハボックが、マスタングが思ってもいないかたちで帰ってきたとき、震えるほど嬉しかったのと同時に、自分がそういうふうにハボックを変えたわけではないことが実は少し悔しかった。
 自分のために変わったのだとわかっていたが、もうハボックは、マスタングのわがままをただ受け入れるだけの人間ではなくなっていた。受け入れたように思えても、それはハボックがそうしたいと思うからそのように見えるだけだった。
 たとえば、寂しいからそばにいてくれ、とか、愛してるから愛してくれ、とか、たぶん一生言うことはないが、そういうことをハボックに求めたとして、それはできないとハボックが思ったら、それはもう、絶対に無理なことなのだ。
 その芯の頑なさが、マスタングがハボックへの好意を気の迷いのようなものだからと、二人だけで過ごす時間がいちばん長い夏のあいだだけ自分にゆるす理由でもあった。
 ハボックはマスタングの思いの向きを知っていて、たぶんマスタングが抱えるものに近い思いを彼も持っている。
 けれどそれは忠誠心と同じ方向を示した切り離すことができないもので、マスタングの思いは、感情はハボックを示しながらも、ハボックの忠誠心の対となるものは、ハボックに向かっていない。それでいて、自分が感情と理性を切り離して平気でいられる人間ではないことを知っている。
 そしてハボックは、そのあいだでマスタングが揺らぐことを望まない。
 開けたままの窓からひやりと澄んだ風がふきこむ。
 砂漠に近く、空気が乾燥している東部とは思えないほど柔らかい水の匂いのする風だ。
 仕事の話だったり他愛ない日常のことだったり、ぽつぽつと語り合う合間に、いい風だな、と独り言のようにもらすと、ハボックも煙草に火をつけながらそうっすね、とするりと言った。
 マスタングは昼間の頭がおかしくなりそうな暑さを思い出しながら、明日も水をまいてくれと頼むことにした。
 それくらいしなければ、十年近く抱えてきた恋は熱くなる一方だ。







ハボロイwebアンソロ企画開催おめでとうございます!
個人ではすっかり腰が重くなってしまっていたので、こうした企画に参加させていただいて嬉しかったです。
テーマはそのまんま「打ち水」でした。
その割にまったく涼しくならない話で申し訳ないです。
でも少しでも楽しんでいただければいいなと思いますvv

不落タル・のら(2011年夏)


のら / 不落タル [打ち水]