向日葵


 瞼に留まる光跡は、いつか見た夢の名残だろうか。それとも光そのもののような夏空に、我知らず見惚れた所為なのか。
 小包と共に送られてきたのは、向日葵畑を写した絵葉書だった。青空の下に縹渺と広がる濃淡の黄色い花は、躍動する生命の象徴であるかのように鮮やかで、それでいてそのどこかに死の表象としての虚無を孕んでいるように思われる。
 ハボックは唇に挟んでいた煙草に火を点け、部屋の前の錆びた手摺りに凭れ掛かった。コンクリートの照り返しが鋭い。アパートから眺める街並みは相も変わらず雑然としていて、大気を焼く苛烈な陽射しが通りの向こうの景色を歪に揺らめかせている。
 ハボックは葉書を読み終えると、額に浮いた汗を拭い部屋へと戻った。ちょうどバスルームから出てきたロイが、トランクス一枚という気の抜けた恰好でこちらに視線を向けてくる。
「誰か来たのか?」
 ひどく眠そうな顔で欠伸をする上司からは、国軍大佐の威厳など微塵も感じられない。濡れ髪のままふらふらソファへ倒れ込んだかと思うと、伸ばした足でローテーブルの灰皿を床へぶちまけるという有様だ。文句の一つも言いたくなる状況ではあったが、なにぶん夜勤明けの午後である。多少の粗相には目を瞑ってやることにして、ハボックは彼の傍らに腰を下ろした。
「実家から荷物が届いたんですよ」
「ふうん、まめだなお前の母親は」
 妙に感心したように呟いて、ロイは顔だけをこちらに傾ける。窓辺に揺蕩う滑らかな縹色が、彼の端正な輪郭をいっそう凛と際立たせていた。風は茹だるような熱気を帯びているが、湧き上がる雲の峰はどこかしら清爽だ。緩やかに靡く黒髪が不思議に眩い。もしかしたら、瞼の裏に残っていたのは、この色彩の余韻だったのかもしれない。
「世話を焼きたいだけですよ。いつまでも子供じゃないってのに」
「青二才が生意気なことをほざくな。有り難い話じゃないか」
「そりゃ、感謝はしてますよ」
 涼やかな目許が揶揄の色を含むのに気付き、ハボックは微かに苦笑する。詳しく聞いたことはないが、ロイは養母に育てられたらしい。その所為なのか定かではないが、彼は月に一度は届くハボックの実家からの便りを、面白がっているようなところがある。
「何が入ってた?」
「ジャムです。へえ、向日葵ジャムなんてあるんですね。あと、向日葵クッキーに……向日葵のキーホルダー? 観光土産みたいですよ」
「土産?」
「これ、一緒に届いた葉書」
 と相変わらずソファに転がったままのロイに向日葵畑の写真を見せてやる。
「ここに行って来たんでしょう。……あ、でも野菜とか果物も入ってますけど。それと、なんか妙なTシャツが……」
 ひらりと広げたTシャツを二人は暫し無言で凝視した。擬人化された黒いサングラス姿の向日葵の背後にSAMMER!という派手なロゴが躍っている。ただでさえ着るのを躊躇うデザインだというのに、ご丁寧にスペルまで間違っているのだから、いっそ見事と言わざるを得ない。
「……大佐にあげます」
「母親の真心を足蹴にするとは、けしからん男だ」
「笑いながら言われても、まるで胸に響かないんですけど」
 腹を抱えて笑い転げるロイに、ハボックは憮然と覆い被さった。小刻みに震える剥き出しの肌が沁みるほどに白い。己の身体から落ちる影の中に収まった男は、自分のもののようでいて、その実、微塵たりとも思い通りになどならない存在だ。徹夜の所為か、眦に差した赤みが扇情的だったが、キスをしようと顔を近付けると、案の定、ロイは暑いから離れろと言って邪険に胸を押し退けてきた。
「べたべた引っ付くな、鬱陶しい」
「いいじゃないですか、やっと二人になれたんですから」
「私は疲れてるんだよ」
「だったら、さっさと寝室に行けばいいでしょ」
「ベッドに入れば、すぐに休ませてくれるのか? ならば、遠慮なくそうさせて貰うが」
 含みのある一瞥でこちらを牽制するロイの双眸は、腹が立つほど嫌味ったらしい。だが哀しいかな、彼への劣情に悶える者の目には、その態度でさえつややかな媚態に映るのだから嫌になる。何より質が悪いのはロイ自身がそれを自覚していることだ。目を細め、嫣然と微笑んだ彼は、やおら半身を起してソファの背にしどけなく凭れ掛かる。上目遣いに答えを促されたハボックは、一瞬ぐっと言葉を詰まらせた。
「そりゃ、その、大佐がそう言うなら俺は構いませんけど」
「へえ、そうか」
「そうです」
「本当だな?」
「本当です」
「なら、ついでにお前にはここで寝て貰おう」
「……どうしてそうなるんです」
「イーストシティーの熱帯夜が、何日続いているか知らないのか?」
 唐突な話の飛躍に、ハボックは、はあ? と間の抜けた声を漏らした。
「新聞くらい読めよ。今夏の東部は観測史上、稀に見る猛暑と言われているんだぞ。狭いベッドに図体のでかい男が二人、並んで眠れる暑さじゃないだろう」
「それこそここじゃ狭くて眠れないんですけど」
「なら床で寝ろ」
「あんた、俺のことなんだと思ってるんです」
「犬」
「ああ、そうですか」
 言い切る男の身体をその場に組み伏せたハボックは、暴れる四肢を力で捩じ伏せ、無理やり唇を塞いだ。ロイの台詞が質の悪い冗談だということは分かっているが、時々、本当に彼にとっての自分はその程度の存在なのではないかと勘繰りたくなることがある。
 今朝もそうだった。二人で司令部を後にし、カフェで遅い朝食をとっているあいだ、ロイは代わる代わる珈琲を注ぎに来るウェイトレスと話ばかりしていた。市民ひとりひとりの声に耳を傾けるのも仕事のうちだ。言わばこれはサービス残業だな。などと嘯いていたが、世情を把握するために、ウィンクしてくる女に微笑み返す必要などあるのだろうか。単に世故にたけているというだけのことではないか。
 そのくせ、横暴な上司の命令で、一晩中、過酷な肉体労働に勤しんでいた部下には労いの言葉ひとつないのだから鬱憤も溜まろうというものだ。
 唇も舌も息もできぬほどにきつく吸い上げ、自分の煙草の味で彼をいっぱいにして、ようやく満足して解放すると、ロイは激しく息を切らしながら不機嫌な目でこちらを睨み上げた。
「私は従順な部下が好きなんだがな」
「部下としては従順だと思いますけどね」
「減らず口を叩くな。大体お前は……」
 言い止して、不意に何か考えるような表情を見せたロイは、矢庭にハボックを引き寄せ、今度は自分の方から舌を絡めてくる。軍人としての彼はむしろ内省的で思慮深い男だが、プライベートなこと、取り分けハボックに対しては己の言動の可否を省みような殊勝な人間ではない。詰まりはこのキスも単なる気紛れということなのだろう。それでも火照りの残るロイの身体は蕩けそうなほどに熱く、この手の中で溺れているのはもしかしたら彼の方なのかもしれないと錯覚してしまう。

 ふと、黄色い花の残像が脳裏でゆらめく。真っ直ぐに、ひたすらに、太陽を追って開く花。

 再びシャワーを浴びたハボックが寝室へ入ってゆくと、先に部屋に戻っていたロイは、ベッドの中央を占拠し目を閉じていた。日はすでに傾き始めており、俄かに忙しくなった蝉の声が静寂の狭間に染みてゆく。ハボックはふと気になって、サイドボードの引き出しから先刻の絵葉書を取り出した。ロイを起さないよう、寝台の端にそっと腰を下ろし、果てなく広がる向日葵畑の写真に視線を据える。あまねく世界を照らし出す太陽そのもののような明るさの陰に、すべてを呑み込む深淵の物悲しさを秘めた花。そんなふうに感じてしまう理由が、ハボックにはなんとなく分かっていた。
 追いつくことは叶わないのだ、決して。
「おい、寝煙草はやめろと何度、注意したら分かる。お前には人語が通じんのか」
 煙草に火を点け仰臥した途端、突如、鞭のようなロイの声が飛んできた。
「あー起きてたんですか。はいはい、すんませんね。なにせ従順な犬なもんで……あ」
 素早く奪われた煙草が灰皿の上で揉み消される。ロイは尚もぶつぶつ文句を言いながら、冗談とは思えない力で人の尻を蹴り付けてきた。
「痛っ」
「従順な犬なら床で寝ろ」
「まだそんなこと言ってんですか、いい加減にして下さいよ。それよりほら」
 新しい煙草を唇に挟んだハボックは、ここ、と不明瞭な声で例の絵葉書を差し出した。
「明日、行ってみませんか。車ならたぶん二、三時間の距離ですよ」
「嫌だ」
 ロイは眉根を寄せて、にべもなく即答する。が、その程度の反応は予想の範疇だ。
「どうしてですか」
「このくそ暑い中せっかくの休みに、何が楽しくて男と二人で花畑なんぞに行かなきゃならないんだ」
「たまの休みだからこそ、遠出したいんじゃないですか」
「写真で我慢しとけ」
「実物はもっと綺麗ですよ。あんたにも見せたいんです」
 途端、スプリングが微かに軋み、背中を向けていたロイがこちらを振り返る。灰色がかった淡紅色の影の中で、瞬きをするその双眸が刹那の思惟を結ぶように、何事か語りかけようとしていた。少なくともハボックにはそう見えた。
「行ったことがあるんですよ」
「へえ、女とか?」
「ええまあ、何年も前の話ですけどね。でね、あんたは笑うだろうけど」
 とハボックは自分でも笑いながら、眼前の真っ黒な瞳を覗き込む。
「その彼女が、向日葵は俺のイメージだって言うんです」
「お前の?」
「髪の色なのかな。それとも日々、太陽の下で肉体労働に励んでいる所為かも知れないですけど」
「見当違いも甚だしいな」
「俺も当時は的外れだと思いましたよ。でも今はそうなのかも知れないって気がするんですよね」
「自意識過剰だ」
「ですかねえ」
 ハボックは苦笑する。確かにいい歳をした軍人の男が自分を花に例えるなんてお笑い草だ。だが向日葵は太陽を追って咲く。東から西へ。太陽に焦がれ、求め、それでも手が届くことはなく、地上に繋ぎ止められたままひたすらに天を仰ぎ続ける。
 その姿は、どこか自分に似ている気がする。
「大佐に見て貰いたいなあ」
「面倒くさい」
「家でごろごろしてたら太りますよ」
「煩いな。疲れている時くらいゆっくり休ませろ」
「んなこと言って、どうせ運転するのは俺でしょう? あんたは到着するまで思う存分、惰眠を貪っていればいいじゃないですか」
「何が惰眠だ」
 ロイはいよいよ持て余したように、長い溜息を吐き出した。
「そもそもお前、どうしてそんなに拘るんだ」
「大佐こそ、何でそんなに嫌がるんです」
「疲れているから、遠出したくないだけだ」
「答えになってませんよ」
 肩に手を掛け、軽く引き寄せる。間近で交わった視線を先に逸らしたのは、珍しくロイの方だった。
「……強情な男だな」
「お互いさまでしょう」
「ああ、分かった。分かったよ。明日、晴れたら付き合ってやる。それでいいんだろう?」
 根負けしたのか、嫌気がさしたのか、睡眠欲に抗えなくなったのか、ロイは投げ遣りな口調でそう約束すると、もう何も話すことはないというように素っ気なく寝返りを打つ。ハボックはその身体を背後から優しく抱き込んだ。唇を沈めた黒髪から、嗅ぎ慣れたシャンプーの匂いが香る。自分と同じで、それでいて、より甘ったるく苦い芳香が鼻腔に広がってゆく。
「良かった」
「暑苦しいからもっと離れろ」
 やや掠れた声が、ぶっきら棒に言った。それでも言葉とは裏腹に、絡め合った指先はいつまでも解かれない。汗に濡れた肌が溶け合いそうだ、そんなことを考えながら、ハボックはゆっくりと目を閉じる。眠れそうにないと思ったのは、杞憂だったらしい。腕の中の静かな気息に導かれるように、徐々に意識がなだらかになってゆく。
 また、瞼の裏で黄色い幻が揺れた。
 誇らしげに、そして、寂しげに。



 瞼を開くと、肌に纏わりつく空気が幾分ひやりとしている。
 ハボックはぼんやりと時計に目を向けた。眠りを攫ったのはベルの音ではないようで、すでに昼に近い時間だというのに部屋は薄暗く、辺りを満たしているのは音と呼ぶことさえ憚られるような閑けさばかりである。傍らで眠っていたはずのロイの姿はない。冷えたシーツに手を伸ばし、彼の名を呟いた途端、霧が晴れるように思考がクリアになってゆく。飛び起きたハボックは慌ただしくカーテンを捲った。果たして、窓の外は激しい雨に見舞われている。空は昨日の酷暑が嘘のように小暗く掻き曇り、石造りの建物が林立する勾配も、街路樹の深緑も翳りを帯びて、四辺には肺の底へと沈み込むような重い水の匂いが充満していた。
「まじかよ」
 悄然と肩を落としたところへ、見計らったようなタイミングで、珈琲カップを手にしたロイが現れる。部屋の入口に凭れ掛かった彼は、窓の外へちらりと視線をくれた。ようやくお目覚めか、としたり顔を見せる上司は忌々しいほどに機嫌がいい。
「随分と楽しげですけど、雨は嫌いなんでしょう」
「時と場合によるさ」
「目覚まし止めたの、あんたですか?」
「どうせこの天気だ。馬鹿っ早く起きる必要もないだろう。仕事に疲れた部下へのちょっとした配慮というやつだ」
 昨日、労いの言葉ひとつないんですねと、さりげなく当て擦ったことを執念深く覚えていたらしい。皮肉たっぷりに言い放ったロイは、で、飯はまだか、などと平然と催促してくる。さすがに腹が立ったハボックは、知りませんよと呟き、湿ったシーツに倒れ込んだ。
「食事くらい自分でなんとかして下さい。俺はもう少し寝ますから」
「怒ってるのか、お前」
「……別に」
 いつになく素気無い部下の態度に合点がゆかぬのか、ロイはきょとんとした顔で瞬きを繰り返す。
「言っておくが雨が降ったのは私の所為じゃないぞ」
「そんなことは分かってますよ」
「だったら、何を不貞腐れてるんだ? そんなに向日葵畑とやらを見たかったのか? 別に次の休みだって構わないだろう」 
「夏のうちに二人で休みを取れる保証なんてないじゃないですか」
「なら、来年、行けばいい」
 さらりとそんなことを言うロイを、ハボックは冷たく一瞥した。
「……来年もあんたと一緒にいられる確信があるなら、こんなに拘りませんよ」
 そう口走った刹那、ロイは見たこともない奇妙な顔をする。不意を衝かれたような、自失したような、訝るような、不思議な表情だ。深い海を思わせる双眸が漣のように揺らめく。だがハボックにはその感情を推し量ることはできなかった。
 のろのろと顔を背けたロイは、ベッドを離れて身支度を始めた。あれだけ疲れているとごねていたくせに、どこかへ出掛けるつもりらしい。常よりも幾ぶん重い足音が遠ざかり、アパートのドアに鍵をかける音が聞こえると、ハボックは暗澹とした気分で枕に頬を押し付けた。もしかしたらロイは、昨日のカフェで可愛いウェイトレスでも口説くつもりなのかもしれない。そんな馬鹿げたことを考える自分に、愛想が尽きそうになる。
 索漠とした想いを抱えたまま、ロイを待つ時間は長かった。窓を閉め切った部屋はひどく蒸していて、まどろみに身を委ねる気分にもなれない。といって、窓を開けるために腕を上げるのも億劫で、ただひたすらに瞼の裏の面影に想いを馳せ続ける。自分にとってたったひとりの、たったひとつの、光を求めるように。
 どれほどの間そうしていたのか、やがて戻ってきた上司は頭まで雨に濡れていた。
「おい、まだ不貞寝してるのか。いい加減に起きたらどうだ」
 布団を剥ぎ取られて仕方なく目を開くと、濡れた黒髪からぽつりと雨粒が降ってくる。その滴りが、あたかも地上に取り残された者の胸に落ちる虚無の一滴のように、じわじわと全身へ広がった。
「大佐こそ、こんな雨の中どこに行ってたんですか」
「お前がいつまでもガキみたいに拗ねてるから、飯を買ってきたんだよ」
「で? 昨日の子とデートの約束でもしてきたってわけですか?」
「はあ? なに言ってんだお前」
 ロイに心底、呆れ果てたような顔をされたハボックは、我ながら情けない気分で再びベッドに潜り込もうとした。しかし、さっさと珈琲を淹れろというロイの命令が飛んできた途端、反射的に身を起してしまうのだから気が滅入る。よく躾けられたものだと、己で己に辟易としつつ寝室を出ると、リビングにロイの姿は見当たらない。
 食卓にはパン屋の紙袋が無造作に置かれていた。近所の店のものではなく、少し離れたハボックの気に入りの店の袋だ。カップを並べたところへ戻ってきたロイに声をかけようとして、ハボックは思わず瞠目した。彼が無言でテーブルに置いた花瓶には、向日葵の花が鮮やかに開いていた。
「大佐、これ……」
「お前はあの場所に行きたかったわけじゃないんだろう」
 密かに真理を指し示すような声音でロイは囁いた。
「それは」
「腹が減って死にそうだ。さっさと食おう」
 目線で促され、ハボックはうろたえつつも珈琲の支度を続ける。ロイはその間にサラダをガラスのボールに移し、冷蔵庫の扉を開いて思案顔をする。ドレッシングは何がいいかと彼は言った。この男は何故かいつも、ドレッシングを選ぶことができない。好きなのにして下さいよと声をかけるのだが、けっきょく三本も瓶を抱えて戻ってくる。
 それは拍子抜けするほどありふれた日常の光景だった。しかし、パンを焼き直し食卓に並べたところで、ロイは思いもよらぬ言葉を口にした。
「悪かったな」
「はい?」
「悪かった、と言ったんだ」
 差し向けられた双眸の真摯さに、ハボックは暫し言い淀んだ。
「……ええと、その。さっきの件なら半ばは八つ当たりですし、大佐が謝るようなことじゃ……」
「そうじゃない」
 ロイは自嘲めいた笑みを口辺に上らせる。
「お前に来た葉書、勝手に読んだんだ」
 いつの間に、と目を見張ると、向かいの席に腰を下ろした男は、手にした珈琲カップを軽く揺らした。
「昨日、お前がシャワーを浴びている間に」
「……別に構いませんよ。見られて困るようなものじゃないし、詰まらないことが書いてあっただけですし」
 そうだ。少々お節介な母親が、息子に書いて寄越すごく普通の手紙だった。他愛のない近況報告の後に、お決まりの文面が続く。元気でやっているの、たまには電話くらいしてね、ちゃんと食べないと駄目よ。
 そして最後にひとこと、彼女を連れて会いに来なさいと記してあった。会えるのをとても楽しみにしている、と。
 見合い相手を紹介すると言われ、恋人がいると慌てて伝えたら、こんな葉書を送ってきたのだ。ただ、それだけだ。ただそれだけのことだった。けれど、確かに自分は今回に限って、ロイに葉書を読ませなかった。
「詰まらないこと、か」
 ロイは彼らしくもない微苦笑を浮かべ、指先で向日葵を弾いた。小ぶりの花びらが、背後から射す光に淡く透けている。
「なあ、こんな雨の日はこの花は何を見ているんだろうな」
「……あなたを」
「それはお前のことだろう?」
「俺も向日葵みたいなものですから」
「馬鹿だな」
 ロイはまた呆れたように笑った。だが、その間歇的な笑い声はすぐに掠れ、逆だよ、という自嘲めいた囁きを乗せて掻き消える。
「逆?」
「太陽を追っているのは私の方だ。……私は考えたこともなかったよ。来年、お前と一緒にいないかもしれないなんて」
 不意に暗闇で殴られたような衝撃に、ハボックはただ呆然とした。口を開いても言葉は出ない。喉の奥で息が詰まって、圧し潰されるように胸が軋む。
 ああ、ようやく理解した、とハボックは震えるように思った。先程のロイの表情。あの双眸が映していたのは、耐え難いほどの苦痛だったのだ。
「大佐、俺は」
「そんな顔をするな」
「けど」
「ミルク」
「はい?」
「ミルクが欲しい。珈琲に入れる」
 横柄にそう言って、ロイはいつもの強かな表情を見せる。傍若無人で、憎らしいくらい余裕たっぷりで、そして見惚れるほどに鮮やかなその顔で、当たり前のように命令をする。
「大佐、あんたの言う通りです」
 立ち上がりかけたハボックは、テーブルに身を乗り出した。
「次の休みが無理なら、来年、一緒に行きましょう。来年が駄目だったら、再来年だって構いません」
「……そうだな。面倒だが考えておいてやる」
 眼差しが眼差しを追う。互いに互いを見つめながら、食卓越しにキスをする。二人の間で開く向日葵が明るく眩しい。もしかしたらこれが、手の届いた瞬間なのかもしれない。

 長い口付けを終えると、二人はようやく遅い朝食をとり始めた。
 

 



 


魚住 / 雲居 [向日葵]