夏日特有の夕立に見舞われ、いつになく駆け足で飛び込んだ。
勤務の合間、夕方に取る休憩に利用するお気に入りの喫茶店。
いつもの時間、カウンターの指定席に陣取って、ついでに隣席もさりげなく確保する。
そしていつもオーダーする珈琲が運ばれてくる頃には、次いで彼がやってくる。
「マスタングさん」
彼は同じ様に駆け足でアンティークのガラス扉をくぐり、可愛い制服の女性店員にチャオというよりも早く私に向かって手を挙げた。
金髪を犬のように震わせ、顔や腕に散った水滴を手で払ってから、彼は彼の指定席――――即ち私の隣――――に腰掛け、アイスコーヒーを注文した。
「吸います?」
もう何日もの間こうやって顔を付き合わせているのに、彼は律儀にそう尋ねる。
それは一番初めから変わらぬ彼の習慣だ。いつもの喫茶店でたまたま隣に座った青年が、何気なく尋ねてきたその日から。
「いや、私は結構。気にせず吸って構わない」
私はそう答え、彼は嬉しそうに礼を言った。その何の悩みもないような明け透けな笑顔が気に入り、ほんの気まぐれから幾つか言葉を交わした。
「どーも。すっげー雨ですね。あんたも結構濡れてるみたいスけど、傘は?」
「生憎持って出なかった。戻れば着替えがあるからいいさ」
「俺はクラブに着く頃にはひどいことになりそう・・・」
「風邪引くなよ」
それ以来、こうやって来る度に会話をするようになった。
世間話から互いの職業の話、壮大な理想、お互いが静かに抱いている夢についてなど、話題はその時によって様々だ。
「暑いな」
「暑いっすね」
一口二口でグラスの半分ほどを飲み干すと、彼は水色の瞳をきらきらさせて笑った。
いつしか私は――――いつの間にか私は、この眼差しに恋をしていた。
聞くところによると彼はまだ学生で、在学校は南にある。今は夏休みのため故郷のここ東部に戻り、この夏の間は古巣のクレー射撃のチームに所属しているらしい。
夏期休暇の終わりと共に彼は南へと戻る。薄口の恋は、自覚した瞬間に消える運命にあった。己ほどの年齢にまでなってしまえば、この危うい淡さは愉しむべきものであるはずなのに、胸苦しさが中々消えてくれないのは難儀だった。
「それにしても――――」
職業軍人並に皮の厚い彼の指に触れながら、骨張った関節をしげしげと眺める。
「まるでプロ並だな。今日も練習か」
そうやって暫く眺め、ふと顔を上げれば、己を見下ろしている彼と目が合う。
その瞬間、彼はこちらが赤面するほど頬を染めた。
「ん・・・・・・どうした?」
「や、すいません、その――――」
動揺し口ごもる彼に触れさせていた、自分の指が震える。
半分はそれを隠すため、半分は純粋にそうしたくて彼の指ごと自分の手を握り込む。
払われることはなく、逆に彼の指が自分の手に強く絡んだ。
薄口の恋をしていたのはどうやら彼もだったらしい。
「・・・・・・時間じゃ、ないんスか?」
ゆっくりと手を離した後の気まずさを払拭するような彼の忠告に、私は素直に頷いた。
「そうだな」
しかし中々カウンターから足が動かなかった。彼の隣を離れたくない。
温くなってしまった珈琲を持て余しながら、時計を眺めるフリをする。
「マスタングさん」
「判っている。君もそろそろ行かなければならないのだろう、ジャン?」
「はい。・・・・・・俺は・・・そろそろ・・・・・・」
彼は財布を尻のポケットから取り出したが、それを握ったままカウンターに手を置いた。
その手を、私は知らず知らずのうちに掴んでいた。
驚いたように彼が身動ぎする。
「・・・君と――――離れがたい――――というか・・・」
私は本心のままそれだけ言うと、はははと困ったように笑い、手を引っ込める。
しかしその手は彼に強く握られ、力尽くで引き戻された。
彼は財布から札を取り出し金額を確かめもせずにカウンターに置いた。
引き摺られるようにして相も変わらずどしゃ降り状態の屋外に出る。
「おい・・・っ?」
無言のまま脇の路地裏に引きこまれ、濡れた建物の壁に押し付けられる。何かの店の軒下だったが、それでも横殴りの雨は体中に降り注いだ。
「ッ・・・」
雨風など意に介さない彼の手に両腕を囚われ、間もなく唇が攫われる。
叩きつけるスコールのような雨も気にならぬほどの激しさだった。
苦いと思ったのは彼の舌に纏い付く煙草の香で。
彼はれっきとした男だというのに、いや、彼だからこそ、私はこう云った。
「――――男を抱いたことは?」
「ないです」
「じゃあ、抱かれたことは?」
「――――それも」
「抱けると思うか?」
「あんたなら、抱きたいと思う」
「・・・・・・その手の経験がないわけじゃない」
咄嗟にその場で吐いた嘘としては上等だったと思う。
「・・・どうしてだろう、おかしくなりそうだ。あんたが欲しい・・・」
「構わない。名前で呼んでくれるか」
「・・・・・・ロイ・・・・・・って?」
「そう。R-O-Y、だ」
私の名を確かめるように囁くと、彼は強く私を抱き締めた。
だが、その瞬間、本能が稲光のように私に危険を警告した。
それでも――――愚かだと判っていながら、私は頭の中で鳴り続けるその緊急シグナルを無視し続ける。
何もかもに逆らって彼に身体を委ねてやれば、それが齎す歓びは絶大なものだった。
喉の渇きを潤すように首筋を伝った雨を唇ですくう。
濡れた服ごと背に縋りあい、何度も口付けを繰り返せば、知らぬ間に雨は上がった。
切れ切れの雲の隙間を早くも星が埋め尽くす。
肩越しの南の空に浮かぶのは、愚行を囃し立てるように赤く赫くアンタレスと、それを取り巻くスコーピオ。
心の大半で恥じ入りながらも、私はひどく感じていた。
夏の曇天の空みたいに、このまま、薄汚く濡れていたいと。
例えばそれが、この夕立の間ほども短い間のものだとしても。
「――――そんな無作法なやり方では、返り血を浴びてしまうぞ・・・・・・」
まだ滴った雨水が乾き切らぬ項、喉仏の丁度裏側にピタリと付きつけられた刃の切っ先に対して、僅かの恐怖も無く私は言った。
「・・・・・・随分と余裕がおありなんですね」
「生憎、・・・経験がないわけじゃない。それなりに死線を超えてきているんだ」
「気づいてたんスか?」
「ほとんど、な。お前、教えてもいないのに私のファーストネームを知っていただろう」
「俺の手が震えてるのも、実は気づいてたりします?」
「その震えが全身に及ばんうちに、任務を遂行することだな――――お前の所属と階級は?」
「ジャン・ハボック准尉。所属は南方司令部。直接の上官はコナ・サイフォン大佐」
彼がこの件の首謀者として口にした男の名は全く覚えの無いものだった。全く何処のどいつだ、と私はうんざりした。
「配属したてのヒヨッコをこんな大物の暗殺に寄越すとは、その大佐も大した人物だな」
「――――ヒヨッコですが、銃も体術もそこそこ自負してましてね。・・・ナイフ格闘も、まあ、そこそこ」
「馬鹿言え、こんな素人がいるものか。私の友人はかなりのダガーの達人だが、そいつはこんな不手際はとらん」
「・・・・・・不手際?あんたのお得意の発火布は、もう使い物になりませんよ」
「そいつが一度刃を抜けば、こんな風にグズグズと躊躇ったりしない」
鼻で笑いながら私が言い捨てれば、肌に触れる切っ先に力が掛かった。迷うように小刻みに振動し、何度も殺気らしきものが彼の瞳に宿っては消える。
しかし彼はそれ以上刃を進めなかった。
その体勢のまま、深く溜息をつく。
「――――暗殺相手なぞ知ろうとするな。まして・・・愛してしまうなど愚行だ」
その言葉に対して何を答えるわけでもなく、彼はじっと私を見下ろした。そのまま何秒、何分と、彼は微動だにせず、瞬きもごく少なく、私をまるで目に焼き付けるように。
「・・・マスタング大佐。聞きたいことが――――」
彼が口を開いたその時、不意に路地をびしょ濡れの猫が猛スピードで横切った。
ぎくりと跳ね上がった彼の心臓に、一瞬で抜いた銃口を押し付ける。
鋭刃の感触が横に一筋走り、首がひりついた。傷口から血が滲み、鎖骨を濡らすのが判る。
しかしそれがどれほどの致命傷だというのだろう。
今や形勢は完全に逆転し、青年の命は己が握っていた。
彼は即座に敗北を悟り、ナイフを手から滑り落とした。
真実はすべからく隠していた唇が弱弱しく動く。
「――――大佐・・・・・・」
「恨み言なら、お前の上官に言うことだ」
吐き捨てれば、彼がこらえ切れなくなったように嗚咽を漏らした。形のよい眉が寄せられ、目がぎゅっと閉じられる。
「あんたがもっと最低な人間だったら良かったのに。俺はあんたが――――血も涙もない人間兵器が、どうして戦争だらけのこの国を変えようなんて――――そんなの――――」
彼の両腕が自分の背に回される。結果、銃口は益々彼の胸に食い込むことになったが、全く彼はそれを恐れる様子もなく、ひたすらに私を抱き締めた。
「――――東に」
ほとんど無意識に私は呟いた。
「東に来い、ハボック准尉。適当な理由をつけて転属願いを出せ。あとはどうとでもしてやる」
「・・・ハ・・・・・・!?・・・無茶、言わんでください・・・!!」
「さもなくば引鉄を引くぞ。それとも、愛していると言った方が効果的か?ジャン!」
彼は勢い良く首を横に振った。それから腕に力を込め直して、一度目はぎこちなく、二度目にはっきりと頷いた。
「あのう・・・・・・何スかそれ?誰の話してんスか?」
そのあたりでハボックが恐る恐るといった感じで口を挟んだ。
「・・・・・・私の部下に『ジャン・ハボック』は一人しかいないはずだが?」
平然と答えてやれば、ハボックは微妙な顔つきで肩をすくめた。
「あ、やっぱ俺だったんスね。安いスパイ小説でもご覧になったんで?」
「安いは余計なお世話だ。公報が軍の会報に載せるからと、部下についての逸話を聞きたいと――――いやなに、中尉と私との劇的なファースト・インパクトに比べて、お前と私のソレが平凡すぎてつまらんからでっち上げてみた」
「平凡ってねえ・・・アンタ。ところでサイフォン大佐って誰ッスか?」
「いるわけがない・・・・・・と思うぞ?」
マスタングは目の前のコーヒーサイフォンを指さした。ほとんどアンティークといってよい年代物のそれは、マスタング宅のテーブルに半ばインテリアとして飾られ、たまにハボックがこのようにコーヒーを淹れる。
ハボックは氷をたっぷりと入れたアイスコーヒーを数口で飲み干した。
「ま、確かに、士官学校出てあんたに声かけられたってだけですから、まあ平凡っすね。つっても――――」
ぴくりとハボックの眉が動き、言いかけた「O」の形のまま唇は静止した。マスタングは視線を動かさず、声も出さずに、唇だけをさも会話が続いているように動かした。
ハボックは素早く立ち上がってマスタングを椅子から引き剥がすと身体全体で壁に押し付けた。同時にホルスターから銃を抜けば、リビングの外側からガラスが割れる。
それらの全てはほぼ同時に起こった。
そしてその一瞬後にはハボックの背すれすれの軌道を初速300メートル秒の弾丸が走り抜け、リビングの壁に穴を空ける。そのさらに一瞬後には、ハボックが一発だけ撃った銃弾が割れた窓をくぐり抜けて意図通りのものを狙い撃ちした。
風の流れが変わり、虫の鳴き声がボリュームを増す。
間もなくリビングには至って変わらぬ夏の夜の静けさが戻った。
「・・・・・・怪我は?」
警戒を徐々に解きながら、ハボックが低く囁いた。
「大丈夫だ。ありがとう」
マスタングが深く溜息をつく。
「俺、後始末してきます」
「頼んだ。まったく、何処のどいつだ・・・・・・」
腕の中で硬い表情で押し黙ったマスタングをからかうようにハボックが微笑んだ。
「――――つっても、中々日常は非凡だと思いません?」
マスタングはつられて笑った。
「そうだな・・・」
そのまま軽くハボックの背を抱き寄せ、銃をホルスターに戻させる。
「非凡なキスが巧く出来たら賛同してやろう」
直ぐ様与えられる昂った口付けを受けながら、肩越しの窓から見た南空には、赤い大火を頂くスコーピオ。
ただのキスに目眩がしそうなマスタングを嘲笑うように、それは二度三度と瞬いた。